青空の独白劇

愛することはね、それは、見つめあうことではなく、ともに同じ方向を見ることなんだよ

舞台 『染、色』の考察

 舞台の『染、色』の配信を観ました。観劇した友人からは「原作とかなり変わってたよ」と聞いていたので、違う作品として捉えて観ました。1つの「染色」というタイトルでここまで違う作品になるなんて…原作者・脚本家の加藤シゲアキ大天才過ぎる…!と自担を大絶賛しました。

アーカイブがあることをいいことに、セリフとか仕草をメモを取りながら繰り返し観ました。

セリフは、耳で聴いたままメモ取ったのでニュアンスな部分があります。ご了承ください。

また、いつもはなるべく読みやすいように、断定的な書き方をしようと思うのですが、色んな可能性の余白が見える作品なので曖昧な書き方をしています。読みにくい部分もあるかもしれません。

どこから考察しよう あれもこれも書きたいと思うことを綴るので、纏まりのない文章になるかもしれませんが書いていきます。

 

  • 染、色について

  公式ホームページの北見役の松島庄汰さんのコメントに

まだ何にもなれていない大学生の繊細な感情を逃さず、瀬戸山さんの演出に染まって行きたいなと思います。

とあったので、この舞台の主人公は『まだ何にもなれていない大学生』が主人公なんだなと思い舞台を観ました。まだ何にもなれていないというと『モラトリアム』と言う言葉が浮かびます。心理学の意味としては『青年期に自己確立を達成するまでの猶予期間』なので主人公たちは、このモラトリアムの期間にあると言えると思います。

 

  • 真未の存在について

  観る前にTwitterで、みうまの名前を逆さまに読むとま(う)みになる。なので、深馬=真未なのではないかという考察をみかけたので最初から真未の存在が実在するかどうかは疑っていました。

 深馬の作品を壊していたのが、真未だと思っていたのに実際は、自分自身であったり友人たちが真未の存在を知らない様子から、真未は実在しないのでしょう。

 深馬の中にある純粋で無垢な描きたいという気持ち そのものが真未として現れたのではないかと思います。

 真未がいつ誕生したのかについてですが、大学で酒盛りをした時に、キャンパスが倒れ手に絵の具が付きます。その手を眺めて不気味に笑う深馬。その後に、ポタリと黒い色が落ちて滲み舞台のタイトルが出ます。その時に、深馬の中に真未が誕生したのではないかと考えます。

 真未が実在しないとなると、あの真未の部屋はどこなのかという話が出てきます。あそこは、深馬の心の中であったり深層心理なのではないでしょうか。劇中のセリフの中に

「変な染みがあって…上の人がなんかこぼしたんだろうね どうしても消したかったの」

というようなセリフがあります。上の人のこぼした染みとは何なんでしょうか なぜどうしても消したかったのか…そこは解き明かせないままです。

ピンクっぽい色のスプレーでその染みを消します。高い位置にあるピンクは桜を意味するのでしょうか。

 

  • 人格の入れ替わり

 真未の存在に気付くまでは、酒を飲みながら深馬が線を描き、眠った後に真未がやってきてスプレーで作品を仕上げる。といった流れでした。ここでものすごくデジャブに襲われて、これなんだろう?って思ったんですけれども、ESCORTのPVでした。タバコの煙を吸く白い加藤シゲアキとその煙を吸って眠りにつく(気を失う)もう1人の加藤シゲアキ

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PVでは、タバコの煙でしたが、舞台では酒。

その後も、深馬はよく酒を飲んでいて酒を飲むことは、この物語の中で何か1つのキーになっていそうです。

 

  • 完成と死と生と性

先生が「死をモチーフにした美術資料だ」と言って、深馬にEGON・SHILE(エゴン・シーレ)の資料集を渡すシーンがあります。調べてみると、『死や性』をテーマにした作品を描いたことで有名な方でした。

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『染、色』の原作が、収録されている『傘をもたない蟻たちは』のテーマは『生と性』でした。

性があるから生がうまれ、そして必ず死が訪れます。

ここで繋げてくる加藤さん…好きすぎる。

また、真未は劇中のセリフで

「完成したらただの鑑賞者にしかなれない。もし満足できない作品が世の中に存在し続けることになったら耐えられないんだ。だから未完成の方がマシ。でもどれだけ足掻いても、最後は変えられない。最後は決まっている。」

と言っています。

完成したら手を加えられない。それが世に出て評価されたらもう自分は何も出来ない。だから作品はそこで終わり=死 ということなのかな。

その言葉を受けて、深馬は

「分からないんだ…その形が…」

と、自分の作品の形が分からないと言います。

それに対して真未は

「自分の最後は自分じゃ見れないもんね。自分の死体は自分では見れない。」

と言うのです。「どう足掻いても最後は変えられない」「自分の死体は自分で見れない」は、他人が見た自分の作品評価はどう足掻いても変えられないし、自分がこの世から去っても作品は残り続けて、作品がどう評価されていくのかは分からないという意味にも捉えられます。

真未の言葉を受けた、深馬は「そこで見てて」と言って絵を描き出し、途中から真未も加わって描きあげていきます。

この瞬間に、深馬の中に真未と一緒に作品を完成させるという気持ちが生まれ、真未を受け入れることができたのではないかと思います。

その後に先生に「なんかあったか?誰かになんか言われたとか?」と尋ねられて

「強いて言うなら、ちゃんと死ぬってことですかね。作品を完成させることは死ぬことだって分かったんです。」

って言ってましたし。

  作品には直接関係はないのですが、脚本を書いた加藤さんは以前「脚本家は描いて渡したらあとは託して眺めるしかない 」って言っていたことを思い出しました。

 

  • 深馬と真未が描いた絵

2人が描いた絵の意味が気になり調べてみました。西洋画での象徴を元に考察していきます。

①恐竜の骨

西洋画での骨は゛死゛の象徴。

最初に真未が手を加えて完成させた作品。

完成することは死ぬことに繋がっているのでしょうか。

②卵の中に女性とウサギ

女性は゛性゛の象徴。

ウサギは゛臆病者゛゛淫欲゛゛不純゛の象徴。

深馬は、作品を完成させることを怖がって怯えてましたよね。また、杏奈と真未と関係を持つことから゛不純゛というのにも当てはまります。

この絵は、女性が真未でウサギが深馬なのではないでしょうか。

真未から見た深馬は、臆病者のウサギに見えるということなのかもしれません。

③燃えている白い花

花は゛女性゛や゛性゛の象徴。

この花は、アネモネかな?と思いました。

白いアネモネ花言葉は「真実」「期待」「希望」

劇中では、深馬が花を描き、真未が炎を描きます。

真未が燃やしているのは、周囲からの「期待」でしょうか?期待から解き放って、深馬を自由にしようとしている。それとも、真実を燃やして打ち消している=真実ではない=真未自身なのか。

花の絵が意味することの謎は解き明かすのが、なかなか難しそうです。

④山羊と巻き付いている蛇

山羊は゛悪魔゛や゛邪悪゛の象徴。

蛇は゛知恵゛や゛邪悪゛の象徴。

奇しくも、この2つの動物に゛邪悪゛という共通点が見られました。

ここでの知恵は、絵を描くことの知恵でしょうか。技法であったり絵の書き方の基本であったり。深馬の

「どこで絵の勉強をしたの?考え方とか描き方とか教えてもらうよね?」

という問いに真未は

「絵って習うものなの?勉強?そんなのしないよ!練習の仕方を教えてもらう?意味わかんない!」

と笑って答えます。

もし゛知恵゛が絵の描き方や考え方なのだとしたら、それは゛邪悪゛なものというメッセージかもしれません。

⑤中央が光っているビル群

調べたのですが、ビル群の象徴するものは調べても出てきませんでした。

ポリダクトリーのプロジェクトの中で、ロランスアカリのお願いで描いたものなのでしょうか。

⑥炎と不死鳥そして目

炎と不死鳥のようなものが描かれた後に、混ざり合い白黒の目が浮かび上がってきます。

鳥の象徴は゛魂゛。

魂が燃えているということでしょうか。

また目の西洋画での象徴は、掴めなかったのですが、目には、゛警戒対象゛゛感情伝達手段゛゛魔よけ(呪術)゛の役割があるそうです。

この見つめる目は誰の目なのか…深馬本人か又は、作品を見る鑑賞者なのか。

 

⑤と⑥がかなり曖昧な考察になってしまったのですが、西洋画の歴史や文化に明るくない私にはここが限界でした。

 

  • 自由ということと責任

自由というワードが出てきました。

印象的なのは、深馬と真未が描いた絵の項目に出てくる⑤中央が光っているビル群を描いている時の会話。

深馬「絵を描くのを辞めたいと思ったことはないのか?」

真未「ないね!歩くのをやめられる?」

深馬「歩くのと一緒?なんだか自由だ羨ましい」

真未「深馬だって自由でしょ」

深馬「僕も思ってた。自由だって でも自分の自由は何かに守られた自由だ 親 学校 仲間 社会 組織 自分じゃないもの。段々 自由の範囲が狭くなる」

真未「私が自由に見える?」

深馬「見える とっても」

真未「じゃあ私が深馬の自由になってあげようか」

大学へ行き深馬の作品に手を加えようとする真未

深馬「それはちょっと…」

真未「自由になりたいんでしょ?」

深馬「 ちょ!責任!」

真未「責任?私たちに1番似合わない言葉だね」

 

というシーン(文字に起こしたらえらい長さになった)

この深馬が言う自由じゃないって何なんでしょう。〇〇に守られた自由について考えてみます。例えば学校。深馬が所属しているのは、美大なので課題は作品を作って評価されます。様々な表現の仕方があると思いますが、自由か と言われるとそうではないですよね。表現したものが、作品が課題に沿っていないといけません。表現する方法は自由に見えて、実は何かに則してないといけない=自由じゃない。

一見、自由かのように見えて、自由じゃないというパラドックスが起きているのです。

社会まで言ってしまうと、社会の枠組みの中で生活しているのが、現代人の大前提なので例えるのは、とても難しいですが。深馬の言う「自由の範囲が狭くなる」というのはこういうことなのではないでしょうか。

そんな自由に狭さを感じている深馬に「私が深馬の自由になってあげようか」と言う真未。

大学に行って、深馬の作品に手を加えようとします。深馬は「責任!」と言うのですが、「私たちに1番似合わない言葉だね」と言われるのです。

自由に必ず付いてくるものは『責任』だと思っています。どのようなものでも作品を世に出すからには『責任』が付いてきますよね。よく大人は自由だけれど、その分責任が重いって言うじゃないですか。その責任のことを考えるとだんだんと自由が狭くなっていく。そのことを深馬は言ってるのかなと思うのですが。真未は「私たちに1番似合わない言葉」と言います。これは「(モラトリアムにいる)子どもの私たちには似合わない」というような意味なのでしょうか。

先程の長い会話の前に2人は、こんな会話もしています。

最初にテーマにしようとしていた詩を独り言で呟く深馬。

真未「そんな詩ダメ!私はそんな詩選ばないよ」

深馬「そっか」

真未「耳触りのいい言葉を並べて詩と読むなら、居酒屋のメニューだって詩になる」

深馬「でも何故か惹かれるんだ」

真未「それは理解出来ない感覚が気持ちいいだけ。酔っ払ってんのよ」

という会話。耳触りのいい言葉とは、何なのでしょう。万人受けするものを作った時の周りからの評価でしょうか。理解できない感覚が気持ちいいは、まだ何者でもない自分に酔うことでしょうか。

ここでは後者が当てはまるのではないかと思います。「それは理解出来ない感覚が気持ちいいだけ。酔っ払ってんのよ」は、将来の為に就活をする訳でもなく、不安ばかりに駆られてモラトリアムに浸ろうとする深馬に向けて言ってるようにも聞こえます。酔うといえば、深馬はずっと酒を飲んで作品作りをしていましたよね。それは、モラトリアムに浸っている状態の暗喩なのかもしれません。

 

  • 可能性について

劇中の原田のセリフに

「可能性が広がってるときって、一方で閉じてる可能性もあるんだよね」

このセリフには、色んなことが当てはまると思いました。作品を完成されると後に戻れないというような意味にも捉えられるし、就職して出世を目指す可能性が広がれば、作品作りに没頭する可能性が閉じていく。

作品から離れた例えを出すならば、医者と調理師になりたいと思っている人がいたとして、医者を目指して医大に入ったら、医者としての可能性は広がっていくけれど、調理師としての可能性は閉じていく みたいなこと。(医者をやめて再び調理師の資格取る可能性もあるとかは置いておいて)

ひとつの選択をすると、他の選択肢がなくなる。

このセリフは深馬にも、そして観ている私たちにも刺さる言葉だなと思います。

 

  • 本物になる

 偽物のポリダクトリーが、現れてその正体が先生でした。その時先生は

「俺の夢が俺じゃない。なんで君が僕の夢を叶える。これを描いた奴のフリをしていれば、フリでも続けていれば何かになる。(割愛)俺もお前と同じで誰かの力で誰かになる。全部俺のモノにしてしまえばいい。いつしか嘘も本当になる。本物に少しでもなれるのなら、大学講師に未練はない」

この時に傍にいた原田も

「本物を演じていれば本物になる」 

と言っています。

 ここで加藤シゲアキ作品が好きな私は、処女作である小説『ピンクとグレー』(以下小説のネタバレ有り)を思い出しました。

ピングレでは、姉に憧れを持つ鈴木真吾が白木蓮悟を演じているうちに後戻り出来なくなり姉と同じ自死を選んだり、白木蓮悟が亡くなった後に、親友のりばちゃんが白木蓮悟を演じているうちに、白木蓮悟になり結末では白木蓮悟と同じ方法で自死をする。

「誰かの力で誰かになる」や「本物を演じていれば本物になる」に繋がるものがあるよう思えます。

深馬は

「そんなの無意味です」

と否定します。真未の力で作品を完成させることができるようになった深馬。何故 否定をするのでしょうか。誰かの真似をしたり、誰かの力で手に入れるものではなく、自分自身の力で成し遂げることに意味があると考えているのではないでしょうか。

この先生とのやり取りは、深馬自身の心の葛藤のようにも捉えられます。

 

 舞台の中で、真未と深馬の衣装の色が変わります。これは2人の心情のリンクや対比…あらゆるものを表しているのではないでしょうか。

 

①深馬→白シャツ・薄いグレーのズボン

キャンバスが倒れて、深馬の手に付いて黒色のインクが滲むまでは、白シャツに薄いグレーのズボンを履いています。

 

②深馬→ベージュの羽織り・白シャツ ・薄いグレーのズボン 

真未→黒いパーカー・黒いシャツ・黒いズボン

 黒いインクが滲んで『染、色』のタイトルが出てきてから、深馬の衣装が変わります。ベージュの羽織りは、何を意味しているのでしょうか。インクが滲んだ瞬間に、真未が誕生したのだとしたら、ベージュの羽織りは真未の存在を表しているようにも思えます。

 

③深馬→黒い羽織り・白いシャツ・黒いズボン

真未→白いタンクトップ・グレーの短パン

 

 深馬と北見が杏奈のことで喧嘩になった時に、2人にスプレーを振りかけた後のシーン。キスしようとする深馬に「シャワー浴びてくる」と言う真未。お風呂から出てくると、白いシャツにグレーの短パンの衣装に変わっています。

白いタンクトップにグレーの短パンは、黒いインクが滲む前(=真未が生まれる前)の深馬と同じ服の色なのです。そして、スプレーが1本無いことに気付き、子どものように大泣きをして取り乱します。

それは何故か、真未にとってスプレーたちは、作品として自分を表現するための大切な道具であり、アイデンティティそのもの。真未を確立するための拠り所だからなのでしょう。

 

④深馬→黒い羽織り・白いシャツ・黒いズボン

真未→黒いパーカー・黒いシャツ・黒いズボン

 真未とまぐあった後、作品が壊されたことが判明するシーンでは、深馬の衣装が変わります。

まぐあったことにより、真未の色に染まったのか、それとも真未になったのか…。

そして、真未が作品を壊していることが発覚するのもこのシーン。「なぜ作品を壊した?」と詰め寄る深馬に真未はこう言います。

「私は深馬を最後に導いてあげてるの。あの絵は最初からこうなるはずだったの。作品を壊す。そのために作る。全部深馬が決めたこと。」

それに対して深馬は「俺はそんなこと望んでない」と言います。それを聞いた真未は

「深馬は絵を辞める理由を探してた。だから口実になるように、分かりやすい悲しみを深馬に与えたの。実家に帰りたいんでしょ(中略)そうしていれば最後から逃げられるんだ。」

と言います。深馬は

「勝手なこと言うな。ちゃんとした自由と不幸がある真未にはわからない。入学した時に、たまたま上手くいっただけなんだ。周りが勝手に持て囃しただけなんだ」

と弱々しく答えます。

それに対して真未は

「深馬は恵まれてるんだよ。なのにこれ以上何を望むの?深馬は絵を辞めたい理由が欲しいだけ。もう楽になりなよ。」

楽になるとは、もう絵を辞めなよではなく、私に全てを委ねなよという意味でしょう。

しかし、深馬には「俺は望んでない」と言われます。真未は悲しそうに縋りついて

「深馬が私にお願いしたんだよ。したんだよ」

それでも「離せ…君は一体誰なんだ」と突き放します。真未は

「誰かなんてそんなに大事なことかな。これまで一緒にやってきた事が全てだよ。ずっとこんな風にいられたらいいね。深馬が望むことこれからも全部してあげる」

と言います。絵を辞めてしまっては、深馬の中にいる真未は消えてしまいます。

「どうして…」と呟く深馬に真未は

「そうすれば、君は何ににでもなれるんだよ」

と言うのです。後ろから抱きしめる真未を剥がし、逃げ回って頭を抱えたところでシーンが変わります。

ちなみに、先生がポリダクトリーの真似をしていることが発覚するシーンもこの衣装の時です。

この深馬が黒い衣装を着ているシーンは、深馬の妄想、あるいは入院中に見た夢なのではないでしょうか。後に判明する先生が逮捕されたのではなく、留学を理由にいなくなったことや、作品を真未が壊したのではなく、深馬自身で壊していたことなど事実と違うことが起こるのが、この黒い衣装のシーンなのです。北見が疑われたのも深馬の妄想か夢なのではないかと考えます。

 

⑤深馬→グレーのパーカー・白シャツ・黒いズボン 

入院しているシーンでは、グレーのパーカーになります。これは真未を黒、深馬を白なのだとしたら混ざりあった色。2人の気持ちが混ざりあったという意味なのか、存在が混ざりあったという意味なのか。それとも真未の色が薄くなって、グレーになったのか。

もう1つ疑問なのですが、杏奈は「熱中症だって」と言っていましたが、熱中症で一週間も意識がないことってあるのでしょうか?なかなか重症だったのか?それとも、本当は熱中症ではなく、何かを隠しているのか。

あと、杏奈が北見たちに「ありがとうございます」って敬語を使っていたり、先生がクビになったと伝えられたりあべこべなシーンです。 杏奈と北見はタメ語で話していましたし、先生はフランスに留学に行ったと最後に分かります。病室の会話のシーンは現実と深馬の夢あるいは妄想が混ざったシーンなのでしょうか。

 

⑥深馬→白いシャツ・黒いズボン

真未→黒いシャツ・黒いズボン

退院した深馬はグレーのパーカーを脱ぎます。そして

「僕は退院した。作品を作る必要も無くなった。作りたいという気持ちも無くなった。段々と壁に絵を描いていた自分が自分だったのかとさえ思う。あの日々は何だったんだろう。真未とは、会わなかった。会ってしまったらガラッと何かが変わってしまう。いや、戻ってしまう。どれだけ時間が経っても、ついてしまった染みは消えない。そうだろう真未。」

と言います。黒い衣装の時に真未を拒んだ深馬は、作品作りを辞めてしまいました。戻ってしまうというのは、真未と一緒に作品を作っていた頃にという意味でしょう。

最後の「どれだけ時間が経っても〜」は、原作の冒頭 そして最後の文章と同じです。ついてしまった染みは消えない。その言葉の通り、深馬のズボンは黒いままなのです。

最初、手に絵の具が付いた時のように、手を眺める深馬。その下で、転がり周り眠るような仕草をして去っていく真未。深馬と真未は、離れてしまいました。

⑦深馬→ベージュの羽織り・白いシャツ・黒いズボン

真未→白いワンピース

 時は流れて春。卒業が決まった北見と原田の送別会を居酒屋で開くシーン。深馬は単位を落とし留年に。

ここで深馬と2人の言っていることが食い違い、ポリダクトリーはロランスアカリのプロジェクトの一環であること、先生は逮捕されておらず留学へフランスへ旅立ったこと、作品を壊したのは深馬自身であることが明らかになります。

また、自分自身が作品を壊したことを受け入れられない様子の深馬を見て「まだダメなんだな…」「あぁ…」と言う北見と原田。まだダメとは?過去にもこの映像を見せているのか?やはり、熱中症で一週間も意識がなかったのは、何か違う理由があるように思えます。

真未は実在する人物ではなかったと判明し、今までの作品は1人で完成させていたという事実も明らかになります。真未は自分の中から創り出した人物であり、真未とまぐあったことは自慰行為であったことに気付きます。上を向いたり下を向いたりして自慰をするのは、真未と深馬 どちらも自分1人であったということでしょう。

ショックを受けた深馬は、震える手で杏奈に消えそうな声で

「杏奈…今から会えないかな…」

と言って、その後ろで白いワンピースの真未が立っていて桜吹雪が舞い舞台は終わります。

桜吹雪は、ピンクっぽい色のスプレーで塗りつぶした方向から吹いてきます。やはり、あのスプレーは桜を表しているのでしょうか。

白いワンピースの真未は、燃え尽きてしまった深馬の心か、それとも真未が実在しなかったことに気付き生まれ変わった深馬を表しているのか。

深馬がベージュの羽織り・白いシャツ・黒いズボンなのは、染みついた真未が消えないからでしょう。

 

最初の方に深馬は北見に「秋に咲いたソメイヨシノの桜の話をしてくれ」と言います。北見が狂い桜の話をすると

「じゃあ間違えて咲いちゃったんだね。それって次の春にも咲いてた?秋に咲いちゃった桜って次の春にも咲けるのかな?」

と言います。加藤シゲアキファンの方はピンと来たでしょう。QUARTTETOに収録されている『星の王子さま』に出てくる歌詞のフレーズ

秋に咲いた不時の桜は

次の春にも咲けるのだろうか

に似ているのです。

調べてみると、秋に咲いてしまった桜は次の春には咲くことはできないそうです。

「入学した時にたまたま上手くいっただけなんだ」や作品を作れなくなった状態を「枯れてしまったんじゃないかって」という深馬は自分も狂い咲いた桜だと思っているのではないでしょうか。

深馬は狂い咲いたと思っているかもしれないけれど、まだ咲いていない蕾なのではないのかと思います。北見が現状を打破することについて「いいことじゃなくてもいい色々経験していかないと」というシーンがあります。真未は必死に「まだ君は枯れてないよ!まだ咲いていないんだよ!私と一緒にこれから春に咲こうよ!」と伝えていたようにも思えます。真未との日々を経験した深馬が咲くことを願うばかりです。

  • 小ネタ的考察

ここからは、本編のちょっとした発見を書いていきます。

  • 滝川先生

ポリダクトリーが滝川先生であることが発覚したシーンで先生は

「大学講師に未練はない」

と言うのですが、年度末を待たずにフランス留学へ行く先生も、大学講師に未練はなかったのだなと。

  • シナモン

真未に「滝川先生ってどんな人?」と聞かれて深馬はこう答えます。

「シナモンみたいな人。すごく強い香りがするのにそれ単体では成立しないというか、あくまで脇役」

これは、先生は生徒がいないと成立しない職業であると言っているようにも聞こえるし、制作者は鑑賞者がいないと成立しない、そして鑑賞者が求めるのは作品そのもの。制作者は脇役という意味にも捉えられます。

昔の雑誌で

「シナモン!あいつはクセェ。アップルパイは好き!シナモンの嫌い度よりアップルパイの好き度が勝つから。チュロスは許せない。ヒダでシナモンをより絡ませようとする魂胆が腹立つ。で、1番嫌いなのは名前。シナモンって!゛モン゛ってかわいこぶってるだけでしょ!」

ってシナモンに対して、理不尽に怒ってたことを思い出しました。

  • 原田の髪型

杏奈と2ヶ月会ってないと話す深馬に原田は

「好きな人にそんなに会えなかったら、もうアレだオールバックにするよ」

と言うのですが、送別会で原田はオールバックになっているのです。長く会えていないといえば、滝川先生。原田は滝川先生に特別な思いを抱いていたのでしょうか。

  • アシカみたい

  深馬の病室にお見舞いに来た北見と原田

喧嘩したこともあり3人とも「おう…」と気まずそうな歯切れの悪い挨拶をします。その様子を見た杏奈が可笑しそうに一言

「おう おう おうってアシカ?」

と言うのです。アシカでおうといえば、一攫千金ゲームゼロの番宣のときに出演した『うちのガヤがすいません』の中で挑戦したゲーム『挨拶ゲーム』を思い出しました。アシカの挨拶はおう!で片手を挙げる仕草でしたよね。挨拶ゲームを意識したか分かりませんが、思い出してフフっとなりました。

  • 深馬の名前

原作では市村と美優でしたが、舞台では深馬と真未でした。

最初に みうま=ま(う)みと述べたのですが、美優に゛ま゛を足すと、みゆう(ま)になりとても似ているのです。また、名前に使われている馬について、西洋画の象徴として「自由」「忠実」「怒り」「好色」「我儘」という意味があるようです。なんだか、象徴する意味が深馬に当てはまるような気がします。

舞台『染、色』の考察は以上です。今までの記事の中で1番の長編となりました。文字数はなんと1万文字を超えています。1万文字超える長文を書くのは、卒業論文以来ではないでしょうか。

考察が止まらない舞台と出会えたことで、私の宝物が1つ増えました。長い考察を読んでくれた方、ありがとうございます。